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過去記事です。

人権回復まであと一歩、判決目前のふくしま集団疎開裁判へ皆さんの賛同表明を!(判決が出ました)

2011年6月24日


福島県郡山市の小中学生14名が郡山市を相手に訴えた「子供たちを安全な場所で教育せよ」を求める福島集団疎開裁判は10月末で審理を終え、まもなく裁判所に判断がくだされます。
(12月10日に作成された文書を転載)


ふくしま集団疎開裁判
この間の審理で、次の真実が明らかにされました。
1、子供たちは、3月の事故から8月末までの積算値だけでも7.8~17.2mSVに達するような環境で学校教育を受けていること
2、子供たちは、チェルノブイリ事故により、郡山市と汚染度が同程度の地域(ゴメリ地区)で発生した次の健康被害が予想されること(琉球大学名誉教授矢ヶ崎克馬氏の意見書)。通常であれば、甲状腺のがん等は10万人当たり数名しか子どもには出ないのに、
(1)5~6年後から甲状腺疾病と甲状腺腫双方が急増し、9年後の1995年には子ども10人に1人の割合で甲状腺疾病が現れた。
(2)甲状腺がんは甲状腺疾病の10%強の割合で発病、9年後は1000人中13人程度となった。
3、ゴメリ医科大学学長のバンダジェフスキーが、チェルノブイリ事故後に死亡した人を解剖して臓器ごとにセシウム137を測定した結果、子供たちの心臓病多発の原因がセシウム137の心臓への高濃度蓄積によるものであることを指摘し、ふくしまの子供たちも内部被ばくにより、今後、同様の心臓病多発が予想されること(医師の松井英介氏の意見書)
4、子供たちは今、チェルノブイリ事故による住民避難基準にもどづいて作成された郡山市中心部の「放射能汚染マップ」によれば、子供たちが通う7つの学校全てが、住民を強制的に移住させる移住義務地域(汚染マップの赤色)で教育を受けていること。

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 これに対し、郡山市は、郡山市民の子供たちの上記主張に「不知」と答えるのみで、転校の自由があるのだから危険だと思うものは自主的に引っ越せばよい、安全な場で教育を受ける権利を侵害したのは東電であって自分たちではない、だから子供たちを安全な場所に避難させる義務は負わないと反論しました。しかし、「転校の自由」論とは福島の現実を見ない残任酷薄な暴論です。 そもそも、このような異常な環境で、異常な健康被害を予見しながら、子供たちをこのままひばく環境に置くことは本来、絶対に許されないことです。それは万人の認めざるをえない審理です。しかし国会や政府はこの真理を無視し続けてきました。それは子供たちを人間として認めないことにひとしい。そこで私たちは「人権の最後の砦」として国会や政府の病理現象を正すことを本来の使命とする裁判所に、子供たちを人間として認めるように人権回復の訴えに出ました。 しかし、そのためには、この裁判を担当する3人の裁判官の力だけでは不可能です。裁判官達による人権回復=世直しを支持する多くの市民の存在・バックアップが必要不可欠です。 まもなく裁判の判断はくだされます。裁判所はいま、司法の原点に帰り「人権最後の砦」としての使命を果たすのかどうかという試練の前に立っています。もし裁判所が勇気を奮い初心にかえったなら、それは14人の子供の命を守るばかりか、福島県の子供たちの命を守る画期的な判断となるでしょう。この裁判所の勇気と初心を支えるために、どうか、疎開裁判の正しさを確信する全国・全世界の無数の皆さんの支持をネットを通じて表明してください。今すぐ、ふくしま集団疎開裁判のブログから「疎開裁判賛同を表明するアクション」に参加下さるようお願いします。


http://fukusima-sokai.blogspot.com/2011/06/blog-post.html(ふくしま集団疎開裁判 弁護団 柳原敏夫)

この文書を作成し、12月17日の講演会で発表する前に、裁判所からの結論が出ました。

 結論となる主文は「本件申立を却下する」というものです。

 決定中には「判断理由の要約」として、以下が記載されています。
「放射線による影響を受けやすい児童生徒を集団で避難させることは、政策的見地からみれば、選択肢の一つとなり得るものである。しかし、債務者には、郡山市に居住する他の児童生徒が存在する限り、教育活動を実施する義務があり、教育活動の性質上、債権者らに対する教育活動のみを他の児童生徒に対する教育活動と区別して差し止めることは困難である。債権者らの申立の趣旨は、事実上、債権者らが通学する小中学校の他の児童生徒に対する教育活動をも含め当該小中学校における教育活動の実施をすべて差し止めること等を求めるものと認められるから、その被保全権利の要件は厳格に解する必要がある。しかるに、債務者による除染活動が進められていることや放射線モニタリングの結果などを考慮すると、現時点において、警戒区域でも計画的避難区域でもない郡山市に居住し債権者らと同じ小中学校に通学する他の児童生徒の意向を問うことなく、一律に当該小中学校における教育活動の実施の差止めをしなければならないほど債権者らの生命身体に対する具体的に切迫した危険性があるとは認められない。また、債権者らに対する損害を避けるためには、債権者らが求めている差止め等が唯一の手段ではなく、区域外通学等の代替手段もある。したがって、本件申立てについては、被保全権利が認められない。」

2 今回の決定の骨子は次のようなものです。
① 債権者らは、債権者らを避難させることを求めているが、実質的には、各学校における他の児童生徒の教育活動の差止めを求めているから、その被保全権利の要件は厳格に解する必要がある。
② 現時点で、他の児童生徒の意向を問うことなく、一律に各小中学校の教育活動の実施の差止めをしなければいけないほど、債権者らの生命身体に対する切迫した危険性があるとは認められない。その理由は、①空間線量が落ち着いてきている、②除染作業によって更に放射線量が減少することが見込まれる、③100ミリシーベルト未満の低線量被曝の晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない、④文科省通知では年間20ミリシーベルトが暫定的な目安とされた、⑤区域外通学等の代替手段もあること、等である。

3 裁判所は、まず、被保全権利がないこと、すなわち、子供たちに切迫した健康被害の危険がないことを理由に、申立を却下しようと考えたのだと思います。しかし、その点だけでは決定理由を書けなかった。そこで、他の子供達についても避難させようとしているなどということを持ちだして、「被保全権利の要件を厳重に解する必要がある」などということを言い出したのです。確かに、私たちは、14人の子どもの避難だけではなく、他の子供達の避難も実現したいと思っていました。しかし、それは、裁判所の決定が出た後の行政交渉で実現できることであって、司法で実現できることではないし、司法判断の対象になるものではないと位置づけていました。個人の権利救済を目的とする民事訴訟手続においては、それは当然のことです。審理の対象は、申立人の子供たちの健康被害を避けるために、申立人の子供たちを避難させる必要があるかどうかだけなのです。他の子供達に対する事実上の影響の問題を司法判断に持ち込み、厳しい要件を課したのは、民事訴訟の原則に違反するものであると考えます。

4 100ミリシーベルト以下での低線量被曝のリスクが証明されたとはされていないことや文科省の20ミリシーベルトの判断を理由に子どもの健康のリスクを否定した内容は、結局、行政の判断に追随しているだけであり、司法の役割を全く果たしていないというしかありません。チェルノブイリでの避難基準との比較、ベラルーシやウクライナの子供たちの現状、福島の明日は今のベラルーシやウクライナであること、多くの子供達が被害を受ける危険があることを、裁判所はどう考えたのでしょうか。科学的な証明のためには膨大なデータの収集が必要であり、そのためには長い時間がかかります。児玉龍彦東大教授が言っておられるように、科学的に証明できてから対策をとっても遅いのです。ことは子供たちの生命、健康の問題です。予防原則が徹底されなければなりません。我が国の政府は、国民に対し、年間20ミリシーベルトまでの被曝をさせる意思です。ウクライナやベラルーシでは、年間5ミリシーベルトを超える地域は強制避難地域とされました。それでも大変な健康被害が生じています。我が国における子供たちの保護が、旧ソ連の各国よりもはるかに劣っていること、そのことを我が国の司法すら安易に追認することに驚きを禁じえません。


5 司法の仕事は、苦しみの中で救済を求めている市民を救うことであって、市民を苦しめる行政の行為にお墨付きを与えることではありません。




弁護団長 柳原敏夫氏のコメント

「子どもを粗末にするような国は滅びる、そのような国には未来はない」
これが真実であることの確認を求め、混乱と異常事態に陥っている国政の是正を「人権の最後の砦」を本来の任務とする裁判所に求めたのが疎開裁判です。
 しかし、本日、裁判所は自らその任務を放棄することを宣言しました。福島第一原発に劣らず、我が国の三権も首をそろえて混乱と異常事態に陥っていることを余すところなく証明しました。それが本日の決定の唯一の意義です。
 これに対しては、私たちは2世紀以上前のアメリカ独立革命の人権宣言の初心に返って、「子どもを粗末にするような国は廃炉にするしかない。未来は子どもを大切にする国作りの中にしかない」ことを宣言する。

「政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立される。いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、変改し、または廃止する権利、いわゆる革命権を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることもできないものである。」(米国ヴァージニア憲法3条)











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