第2次世界対戦で多くの犠牲者が出ました。荒れ野原となった地で、空襲により手や足を切断したり、ケロイドになったり、眼や耳が聞こえなくなる人が多くいました。
そして、政府が補償したのは国との雇用関係がある人のみ。
空襲でハンディキャップを背負わされた「一般人」への補償は一切ありませんでした。
(戦時災害援護法制定をお願いしているのは※) 「金をくれという問題ではない。戦災で傷ついた人間が存在したという証し、その痛みをわかってほしい。国の責任を明確にして償ってほしいということなのです」
おみすてになるのですかー傷跡の半生 杉山千佐子著
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◆空襲
無差別空襲 7月6日 -1- |
5人兄弟の四女。男の子が欲しかった家の中で、女の子が続いたので、「いらん子」として扱われていたそうです。ですが、力強く行き、おてんばだったことから、近所では「お天さん」と呼ばれていました。
1945年3月24日23:56
この日、はじめて照明弾が投下されました。これまでも空襲がありましたが、それまでは照明弾は使われなかったそうです。深夜だというのに、軒下の蜘蛛の巣まで見えていました。
爆弾が落ちた瞬間の様子を引用します。
そのとき一瞬シーンとして物音一つもなく何か真空状態の異様な感じがしました。あ、危ないと急いで防空壕に飛び込みました。と同時にグーッと土に押され身動きできなくなりました。250キロの至近弾で壕はつぶれ、生き埋めになったのです。
私がふっと振り向いた瞬間にわっと爆風がきて、まともに顔に受けたからすぐ鼻の上部がわれて、左の目が潰れちゃったというのはその瞬間にわかりました。
空襲は、爆弾、焼夷弾、機銃掃討などがありました。
杉山さんは油脂焼夷弾による攻撃を受けました。
その攻撃で、顔に大きな傷を、耳も片方が聞こえなくなり、視力も落ちました。
焼夷弾の威力はコチラの動画で…
日本本土空襲(Wikipedia)
戦争に関する資料館調査会(愛知県・名古屋市)- インターネット戦争資料展 [愛知県における空襲の概況]
◆入院から仕事を手に…
病院に着くとたくさんのけが人がいました。
数時間経ってから医師が現れ、手術を開始。顔に刺さった破片を取り除いたり、顔の傷を縫う際、麻酔をしませんでした。
杉山さんはただじっと耐えていました。
戦後の薬不足でこのように麻酔なしで処置を受けた方が多いようです。
その後、痛みが続き、痛みに伴い熱発も繰り返していました。
終戦の2日後(8月17日)、病院を強制退院させられ、長野県に疎開している妹の家に行きました。
長野県に疎開している妹の家に行き、田舎の生活をはじめました。ずっと、名古屋や東京での生活だったので、田舎の生活はなれないものでした。
桑畑を開墾して、ジャガイモ畑を作って、雑草をむしることもしていました。
このような仕事に慣れた頃、傷の痛みもほぼ回復し、歩く力も戻って来ました。
力が戻ってきた千佐子さんは、このままではダメだと思い、名古屋に戻り、仕事をする生活をはじめました。
印刷屋の秘書代わり、社宅の寮母、化粧品の販売など、さまざまな仕事を行い、最終的に、南山大学の教授寮で寮母をすることになりました。
ここでの出会いが杉山さんの人生を大きく変えました。
◆活動開始!!
南山大学では寮にいたユニークな教授方々のニーズに合わせて料理を披露していったそうです。寮母として働いている時、南山大学の佐々木教授が杉山さんにお話されました。
戦争中には、防空法や戦時災害保護法という空襲で被災した民間次への国家補償を定めた法律があったことを熱心に話してくれました。
黙っていても何も変わらないということもお話されたようです。
そして、ここから長きにわたる「戦時災害援護法」成立に向けた戦いが始まるのです。
◆旧西ドイツと日本の補償
ここで日本と旧西ドイツの補償の違いを本から引用します。
西ドイツでは400万人の戦争犠牲者が、軍人も市民も差別なく補償を受けていました。国家予算の4%、125億マルクが充てられているということでした。
戦災障害者は、基本給899マルク(62930円)、賠償金899マルクの他に、障害の度合いによる手当て、医療費、住居費、生活費、介助費がつきます。とくに顔面の負傷は、生活の権利を奪っているものとして、重度障害と認められ、多額の支給がなされていました。日本では、顔のケロイドは身体障害者福祉の対象にもならず、どこからも救いの手がないというのに、西ドイツでは大違いです。
旧西ドイツで戦後一番初めにできた法律が、戦争犠牲者援護法でした。
(中略)
空襲で受けた傷全てに補償され、戦後不発弾によって負傷した場合も同じ補償を受けられるということでした。
日本では1952年戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、軍人や軍属など国との雇用関係がある人は救済されることとなりました。しかし、それ以外の一般国民は、国との雇用関係がないということで、空襲で手や足を失った人、顔にひどいケロイドができた人も、特別な年金はなく、そのような戦災障害者はありとあらゆる福祉から切り捨てられているのが実情です。
軍人、軍属、学徒動員ではない戦災障害者ははその姿ゆえ、仕事にも恵まれませんでした。
福祉から切り捨てられ、仕事もほとんどできない戦災障害者は、社会と関わることなく、ひっそりと暮らしていたようです。
◆戦時災害援護法制定を目指して
防空法や戦時災害保護法を知ってから、当時発足した空襲を記録する会に参加しました。空襲を記録する会では、記録はするけど、戦災障害者の実態を訴えるような行動はしませんでした。
1972(昭和47)年に全国戦災障害者連絡会をたった一人で、名古屋に立ち上げました。
精力的な活動により輪が広がっていき、1973(昭和48)年全国戦災障害者連絡会が発足しました。
政治の表舞台に初めて立ったのは愛知県議会でした。
当時の愛知県知事である桑原知事は民間戦災者の補償は国の責任であることを認めて、政府に立法化を求めるという回答をしました。
しかし、後日、また陳情に行くと、話は聞いてくれたけど、結局力にはなってくれませんでした。
そして、この時、愛知県選出の社会党国会議員の須原昭二さんに会いました。
須原議員はすぐに国会に持ち帰り、社会労働委員会で問題にしました。
当時の厚生大臣の答えは
「戦災障害者は国家的身分がないものだ」と救済を否定
結局、廃案となりました。
その後、須原議員が倒れ、同じく社会党の片山議員に手渡された「戦時災害援護法」。活動の甲斐あって、超党派で法案を提出するも、結局廃案となり、超党派でということで頑張っていた同じ会の方々もこれを機に去っていくのでした。
100歳までには成立させたいとおっしゃっていた杉山千佐子さん。
講演をしてくださった2013年は御年97歳。
「まさか本当に100歳になるとは思わなかった」
◆管理人が思うこと
「内地は戦場ではなかった」「国との雇用関係がないから補償しない」
「爆弾の雨あられは自然現象」
これだけの犠牲を払った第二次世界大戦。
その戦後処理が実は未だに終わっていなかったことをボクは全く知らなかったのです。
家族を失った、体の一部を失ったなど、本当に多くの犠牲がありました。
軍属、軍人、学徒動員など、国の雇用関係がある人は補償をされました。しかし、空襲にあった一般人には未だに補償がありません。
法律の制定で厚生大臣や厚生省職員に話しに行くと、上記のようなことを言われました。
国民を騙して戦争を起こし、戦争が終わっても誰も責任を取らない。
身内は補償しても、一般人は補償しないという体質。
このような図式は、水俣病などの公害から始まったわけではなく、第二次世界大戦から、もしくはもっと以前から、このような体質だったのだと痛感しました。
第2次世界対戦、公害、障害の問題、現在であれば福島第一原子力発電所の放射性物質の問題。どれも共通しているなと強く感じました。
また、戦時中に海外にいた人が日本に帰国する際に、いろいろな制限をしていたようです。
この辺りも後日詳細に話を聞き、記事にしていこうと思います。
◆杉山千佐子さんの講演会の音声をアップしました
97歳の力強い声を聞いてください。管理人の操作ミスで、講演会の途中からしか録れていなかったので、最後の質疑応答の部分をアップしました。
○関連記事
空襲被害「戦後70年までに援護法を」 東京で女性講演(朝日新聞デジタル)
管理人もこの会場にいました。
援護法制定 諦めない 空襲で重傷 97歳杉山さん講演ー東京新聞
91歳、平和のため闘う日々 再び戦災傷害者をつくりたくない
労働新聞 2006年6月25日号
◆杉山千佐子さん関連
ドキュメンタリー映画:
「人間(ひと)の碑(いしぶみ)」
「おみすてになるのですか」
監督:林雅行
制作会社:株式会社クリエイティブ21
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